日曜の連載16

2019年9月8日 /

 万吉の作業は順調に見えたが、ここに来てドローイングを修正することを決断。絵の美しさを優先し、言わなくてはいけないことを言えていないのではないか、と鉛筆が止まった。これらの絵は、一本釣りの漁師が爽やかな風を受け、降り注ぐ陽光を浴び、ゆらゆらと揺れる船の上で、未だ見たこともない大きな魚を釣り上げようとしている。この建築は、そんなはずはない。少々乱暴な手法だが、押し上げるような勢いと、気配を消すようにじっと耐える気力を表現するために、色鉛筆を紙に擦り付けた。爽やかに描かれていた20枚の絵は悉く表情を変えていった。後に4回生担当の先生から「万吉君は色鉛筆の使い方を間違っているな」と言われるほど迫力のある凄まじいものに仕上がった。
 満足であった。自信があった。最も作品のアイディアやデザインではない。根気と体力の結晶にである。
 この自信は崩されることなく「サンチャゴの家〜老人と海から〜」はグランプリを獲得した。その後この作品はメインタイトルで呼ばれることはなく、サブタイトルの「老人の海」として後輩たちに語られた。
 学科長の高橋てい一先生をはじめ、100点を付けた先生も数人おられるほどハイレベルの戦いの結末は、1位と2位との差が2点であった。千数百点の内の2点である。その作品はサンチャゴの家とは対照的で、パステルの淡い色調で描かれた夢のような美しい作品であった。平面図と断面図とアクソメ図などの最小限のドローイングと小さな模型。作品の断面ドローイングに人影は描かれていない。ところがだ、ボーと見ていたのかもしれないが、朝を迎えて突然家の入り口から沢山の森の妖精が顔を出し、挨拶を交わす賑やかなざわめきの気配を感じた。ふと我に返ったものの、騒めいているのは万吉自身の胸の内であった。「天才とはこの者のことだ」。サンチャゴの家は、圧倒的な絵の量と、模型の密度と、それにつぎ込んだ時間によって評価を得た。結局は、力に頼ったアメリカではないか。
 勝利したものの、万吉は彼のように美しく人を感度させる才能を羨ましく思った。高橋てい一先生は、彼の作品を「枕元に置いて寝たいぐらいだ。譲ってくれないか。」と、いつもの満面の笑顔で全学生の見守る前で好評した。改めて、羨ましかった。
 彼はその後1年間大学で助手を勤め、建築学科のアイドルを連れて実家のある岡山に帰った。

(本作品はフィクションであり、登場する人物・団体名等はすべて架空のものです。但し、作中で言及している物語の背景の建築や建築家等の人物や団体名は、現実に存在していたり、または過去に存在しておりました。また、原作は2004年4月刊行の「退職届」です。)

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