日曜の連載24

2019年11月16日 /

 住所録と書かれた黒くて厚く硬い表紙の書類を目の前で開く。万吉の名前が見つかり赤の太い線が引かれていた。右の備考欄には小さくて沢山の字が書かれている。彼は風邪で辛い。大家さんの証言では「学校の先生をしているそうですが、部屋にはあんまり帰って来てないようですよ。」と怪しい人物を匂わせる証言があったようだ。彼は職業を説明した。設計が主で、学校はアルバイトの様なものだと。次に文房具店の話をしてきた。早く帰りたかったので、正直に画戔堂と園城の2店について詳しく話した。警官は園城に興味を持ったようだ。伏見の酒蔵が並ぶ街に大手筋と言う商店街がある。その中間位に「園城」と言う文房具店があった。次に眼鏡について「今掛けているもの意外に持っているか」と他の種類の眼鏡を探しているようだ。当時の万吉の眼鏡のメーカーはオックスフォードで黒縁であった。
 彼らの目的は、万吉を道路交通法で逮捕する事ではないことをこの時知った。彼らの探している人物は、園城でタイプライターを購入し、伏見稲荷近辺に住んでいる、黒縁の眼鏡を掛けた、きつね眼の男である。「・・・・それは俺だ。」
 万吉は、部屋に1人で取り残されて風邪で意識がもうろうとする中、「僕はどうなるんやろ」と思うだけで、考える思考は全くなかった。どれくらい時間がたったかは解らないが警官が再び入ってきた。彼が机に頭を寝かせて風邪の熱に耐えて、ウルウルとした眼で警官を見上げると「鼻水を拭け」とティッシュを渡された。随分バカ面だったのだろう。開放される直前に怒る元気もなく「何かお力になれましたか」と訊くと「グリコ森永事件を知っているか」と訊かれた。万吉は駐車場からバイクを道路まで出して、薄明るくなった静かな街にエンジン音を響かせた。下宿の前で大家さんが水を蒔いていた。今頃水を蒔くと凍るので危ない。彼は声も掛けずに部屋に入った。そして、風邪の症状や眠気と闘い、遅刻することなく数時間後の10時前に事務所のカギを開けた。

 万吉にとって淡々とした毎日であるが、図面を描かせて頂けるようになった。しかし、店舗、ホテル、住宅、実施設計図が完了しても、ことごとく仕事は潰れ続けた。学生の時と同じく、相変わらず先生が万吉に期待するのは、朝に遅刻せずに事務所のカギを開け、掃除をして、電話をとることだけである。唯一、誉めてくれるのはコーヒーを入れると「美味い」と言ってくれることだけであった。

(本作品はフィクションであり、登場する人物・団体名等はすべて架空のものです。但し、作中で言及している物語の背景の建築や建築家等の人物や団体名は、現実に存在していたり、または過去に存在していたものも含まれています。また、原作は2004年4月刊行の「退職届」です。)

連載は次の段階に入りますので 準備のため少しの間 お休みを頂きます。

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