次の年に築間陣先生は正式に建築学科の講師になられた。昨年「何だあの先公ー」と悪態をついていた学生達も、今はすっかり築間教の信者になっていた。春の五月祭が終わった頃、4回生にとってゼミを選定する行事の時期が来た。築間ゼミは人気殺到、競争率は嘗てない程である。建築学科のゼミは定員制であり決定方法は「ジャイケン」なのだ。民主的であると勝った学生は言う。ジャイケンが民主的であるのか、そうでないのかはよく分からない。しかし万吉は、ジャイケンに負けて製図室の隅で肩を落とす先輩の、大粒の涙の目撃者となった。
万吉は相変わらずアルバイトと音楽にドップリで、人気グループのバックバンドもこなしスーパースターの夢をみていた。夏休みに入って、自身の2回生と3回生の合同課題もデザインに関わることなく、3回生から渡された図面を元に模型を製作した。昨年のようなエキサイティングな場面もなく、上位にくい込むこともなかった。しかしその後の設計課題では、丹下健三や黒川記章等々の作品を小手先でモノマネをして評価は上がりだした。最近は宮脇壇をレパートリーに加え、益々盗作に磨きがかかり2回生の最終課題でトップに躍り出た。卒業設計の手伝い要求も多く「美味いめしを用意する」「彼女を紹介してやる」「車を貸してやる」等々のニンジンをぶら下げられて真面目にお手伝いした。美味しいめしとは、ストーブの上で常に煮込まれているシチューと大きな炊飯器の中の白米。シチューの詳細は、具が溶けて無くなったのか、それとも最初から入っていないのか確認できないが、実に美味しい。米は先輩の実家で作っている米で、食えないほど送ってくるらしい。なるほどキッチンの隅に10キロの米袋が3つ以上積まれていた。この米も実に美味しい。しか〜し、女気は無い。そもそも先輩に彼女はいなかった。車は後部座席が取り除かれて、助手席の扉が落下防止のガムテープで張られた悲惨な姿の「スバル360」。大きな期待はしていなかったが「詐欺だ」と言うと、先輩は怒りだした。特に弁が立つわけではない。先ほどまで褒めちぎっていたにもかかわらず、意味不明にののしり「お前にはがっかりした」などと相手の顔も見ずにやたらと怒鳴る。万吉は「理不尽」という言葉をこの時覚えた。同時に、芸術家は必ず例外なく理不尽であることも学習した。
詐欺だ理不尽だと騒いだが、手を抜いたわけではない。むしろ昨年より知識も技術も上達し、貢献度は高かった。しかし万吉が関わったこの年の卒業制作の結果は惨敗であった。最も少々手先の器用な2回生が手伝って作品が著しくどうこうなるわけではない。「何故負けたか」。昨年の作品の傾向は、水色の水面と街路樹や公園の緑が印象的で、明るい爽やかな未来都市をイメージするような都市計画が主流であった。しかし今年の卒業設計は、同じ学科なのかと目を疑うほど印象が変わった。6Hから3Bぐらいの鉛筆で描かれたドローイング。デッサンではなくアイソメやアクソメで作画された下絵に、影を落し込み立体的に表現した図である。文章の説明はない。光と影だけの世界に、身震いさえ感じる。ほとんどの作品が白と黒の葬式会館のロビーに飾られるとシックリと馴染みそうな作品ばかりで、更にグランプリ作品の題名は「斎場」。そして上位を独占していたのが築間ゼミであった。因に、グランプリ受賞者の山本正治はその後、築間陣先生の1番弟子となり師の建築設計事務所を支えていく。
(本作品はフィクションであり、登場する人物・団体名等はすべて架空のものです。但し、作中で言及している物語の背景の建築や建築家等の人物や団体名は、現実に存在していたり、または過去に存在していたものも含まれています。また、原作は2004年4月刊行の「退職届」です。)