終盤になり、社長は店づくりに入った。万吉は社長から、懐石フロアーの部屋名の提案をリクエストされた。万吉は数種類の案を提出したのだが、結局は先生が室名と室名が灯る行灯のデザインを同時に決めた。いつもなら、その流れで先生が行灯に室名を書かれるのだが、珍しく万吉が筆をとることになった。
社長はお店に飾る、骨董家具、大きな壺、絵や写真を選び出した。そんな中、広い廊下の壁面に屏風絵を飾りたいと言う。徳丸大吉郎氏に書いて頂きたいと画商に相談しているところに万吉は出くわした。なにやら徳丸氏は、金箔の屏風になら描いてもいいと言っている。なんと、その金箔は金閣寺の修復に使われた金箔で、同じ修復師に箔を張ってもらってほしいと。画商と社長が万吉の方を向いて「京都の先生なんだから金箔頼みます。」って声をそろえて言った。
金閣寺の修復をした金箔屋さんを探すことにさほど苦労はなかった、と言っても金箔屋さんではない。文化庁御用達の文化財の修復師だ。京都伏見に工房を構えていて、面会を快く受けて頂いた。運良く仕事の狭間で、「徳丸大吉郎さんの希望です。」と伝えると、驚いたことにその場でサラッと引き受けてくれた。万吉はこの縁で、金閣寺を至近距離で見学することができた。後に、テーブルの塗装について先生は「水を打ったような黒」と言った時、金閣寺の漆の床を思い出した。
現場は楽しかった。現場所長の工程管理が的をついて、現場は順調に進行した。こんな事もあった。現場の設備業者の計らいで隅田川の花火大会の予定が組まれた。ところが当日は施工図の承認が多くて、さらに修正も多くて、花火を諦めて腰を据えて修正に取り組んでいると、現場事務所に大きな画面のテレビが運び込まれてきた。これでテレビで放送される花火をみんなで鑑賞しようとのことだ。花火が始まる頃、万吉は仕事も終えて、現場事務所の冷房の効いた部屋で、ビール片手に大画面で花火を見れて満足であった。
現場所長とはよく酒を交わした。当時アサヒスーパードライが大ヒットした時である。彼はこのビールを好んで飲んだ。我々、キリンビール派にとって残念なことに、このビールは美味かった。
(本作品はフィクションであり、登場する人物・団体名等はすべて架空のものです。但し、作中で言及している物語の背景の建築や建築家等の人物や団体名は、現実に存在していたり、または過去に存在しておりました。また、原作は2004年4月刊行の「退職届」です。)