令和が始まったからといって人生が新しくなったわけではありません。しかし新天皇は年齢も近くて、素直にお祝いしたい気持ちです。せっかくですから随分と棚の上で休んでいた文章を見直そうではないかと思いつきました。新天皇のお祝いになるかは疑問ではありますが、これを記念しまして連載を始めます。
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「芸大はどうして行くのだ」「先生専用のバスがそこから出ています」と浪和万吉は一般バス停の横にある大学職員専用バスと書かれたサインを右手で指した。その先生と思われる男性は、バスの発車時間を確かめることなく駅前の唯一の飲食店である中華料理店に入っていった。もっとも中華料理と書かれているが、店の作りもメニューも中華風の大衆食堂である。ここは近鉄河内長野線の喜志駅。一つ前の古市駅から単線になる。よくある大学駅前の風景は、喫茶店にパチンコ、雀荘にビリヤード、気の良いおばちゃんのめし屋等々の誘惑が軒を並べ、大学に辿り着くまで一苦労するものある。しかしこの喜志駅周辺を取り囲んでいるのは殆どが農家だ。そういえば鉄道と平行して走っている外環状線までの間にパチンコ屋が1件あった事を思い出した。万吉は駅で出くわした建築学科の友人達と「あれは美術の先生だろう」「絶対に絵描きさんだ」「デッサンを教わるかもしれないな」などと話しながらギュウギュウ詰めのクーラーの利かないバスで大学に向った。駅前で声をかけられた美術の先生と思われる男性は、ガッチリした体格で髪型はビートルズが世界に広めたと言われたマッシュルームカット。低い声と鼻下のヒゲだけでなく顎ヒゲも印象的で、パリの街頭でスケッチをしている姿が似合いそうな名のある画家に見えた。芸術大学と言うからには芸術家が多いのでヒゲは珍しくないと思えるが、以外とヒゲの先生は少ない。建築学科の常勤の先生は10人程度で思い当たるのが約2人。その後、駅前で会ったヒゲの美術の先生らしき男性からデッサンを教わることなく夏休みを迎えようとしていた。
浪和万吉は関西の芸術大学芸術学部建築学科に通う1回生。親に学費を出してもらっていながら、入学試験を受けた当時から建築にはほとんど興味はない。目標は、日本の楽器メーカーが主宰する音楽祭でグランプリに輝いた「ツイノスト」であった。ニューミュージックと言う言葉が生れ「サザンノオールスターズ」や「ゴノダイゴ」「オフノコース」などと一つの時代を築こうとしていた関西のグループである。もっとも彼はニューミュージックを目指していたわけではない。音楽の取っ掛かりは、お決まりのビートルズだ。オンサーを首からぶら下げ、ギターとドラムのスティックを肌身離さず持ち歩いていた若者である。
(本作品はフィクションであり、登場する人物・団体名等はすべて架空のものです。但し、作中で言及している物語の背景の建築や建築家等の人物や団体名は、現実に存在していたり、または過去に存在していたものも含まれています。また、原作は2004年4月刊行の「退職届」です。)