日曜の連載19

2019年9月29日 /

 万吉に建築雑誌の出版社から掲載の声が掛かった。岡山の天才と卒業制作の2作品が近代建築11月号で発表される。初めての作品発表で、名前が活字になる。嬉しかった。いざ出版されると印刷が荒く鉛筆のタッチがつぶれていた。さらにモノクロなのでよく分からなくなっている。一方の岡山の天才の作品はパステルの柔らかい感じは伝わってきた。本人はどのように思ったか定かでないが、少なくとも万吉はそのように感じた。「意図が伝わらなければ発表しない方がましだよ」と先輩は厳しく言うが、とにかく嬉しかった。お金に苦しい時だったが5冊買った。
 万吉は3月末に予定していた退職を築間先生の海外視察の都合で2月末に繰り上げた。退職の挨拶の時に社長から「黒川記章のようになりなさいや」と言って見送って頂いた。黒川記章の大ファンではないが反論することなく、ありがたく受け止めた。本当にお世話になった。
 給料もたくさん頂いた。休みもある。会社や上司からも大切にされた。端から見て、何一つ不満などあるはずがない。しかし、強引な決断である。
 全てを捨てても、血が「建築をつくりたい」と言っていた。不義理な男である。

 万吉は、何れは大手建設会社の設計部長を夢見ていた親父の期待を裏切り、病気がちな母親を見捨て2月28日17時に退職し夕食を家で済ませて、親不孝者は早々に京都に向った。高級スポーツカーは借金返済のために売り払い、軽自動車に乗り換えた。布団と下着のケース2つ、スーツ1着に辞書とステッドラーのコンパスを積んで、6万円を大切に大きな財布にしまった。これから収入のない生活が始る。高速道路など贅沢はできない。堺から外環状線に入り1号線で京都に向った。その日の内に事務所に到着し、先生に挨拶し「今日はゆっくりしろ」と言われ、同期スタッフの香川全さんの下宿にお世話になった。
 実は宿が無い。京都入りを1ヶ月速めた為に、予約していた下宿が空いていないのだ。従って1ヶ月間、香川さんの下宿に居候させて頂くことになった。荷物は全て車の中に置いたままの状態で、寝袋だけを持ち込ませてもらう。香川さんの部屋は、照明器具が床に置いてあったり、クリップで棚のパイプに付けてあったりで、天井から吊るされた一般家庭にあるような蛍光灯の照明は無い。ムードのある部屋と言うのだろうか、適切な説明ができない。
 万吉はしばらく寝ることが出来ず、天井を見つめていた。「俺はこの先どうなるんだろう。」

(本作品はフィクションであり、登場する人物・団体名等はすべて架空のものです。但し、作中で言及している物語の背景の建築や建築家等の人物や団体名は、現実に存在していたり、または過去に存在しておりました。また、原作は2004年4月刊行の「退職届」です。)

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