日曜の連載30

2020年2月23日 /

 万吉の担当する、歯医者さんの住宅が着工した頃のことである。日曜日に先生の奥さんが2階から降りてこられて、アトリエで本を読んでいる。先生が機嫌良くスケッチをしていた。「何やってんの」と奥さんが覗き込んで「新しい事務所?」と訊く。先生は答えない。突然、「万吉くんにやさせたら」と言い出した。先生は一瞬不機嫌になったが「施主の気分を味わうのも良いだろう」と言い、万吉に資料を渡した。その瞬間から万吉は曾て無い「スーパー建築主」を経験することになった。
 「使いやすい事務所を考えろ」。先生の口から信じられない言葉が飛び出した。説明は省略。更に「デザインは必要ない」と言う。万吉は1人あたりの作業範囲とドラフターとA2版の図面が拡げられる机をワン・モジュールとし、更にA1図面使用時の発展型パターン等を検討した。因みにこの新事務所が竣工した頃、築間陣建築設計事務所は公共の博物館や大規模集会施設などの依頼が増えるようになり、A2図面を使用することは殆んどなくなり、A1図面が主流になった。
 先生の所有蔵書の寸法を全て測り本棚を設計する。コスト減の為に経済的な型枠のパネル割り。将来増築用のスペース。手強い施主である。殆どの設計を終えた時、最上階のパラペットに2本のスリットが切られ、所長室に赤いバルコニーがデザインされた。
 この建築は近隣対策も絡んでいた。裏の5件と隣のアパートである。そして、この裏と隣は嫌煙の仲であった。裏と仲良くなれば、隣が僻む。隣と先に交渉すると、裏が怒る。残暑が終わった夜、裏の5件と最後の交渉を行うために事務所を出発した。先生の後を歩いて空を見上げると、やけに星が美しく見えたのが印象的だった。長時間の交渉は無事に終了し、上機嫌で事務所に戻ると、ラジオからは六甲おろしをバックに阪神タイガース優勝の現場中継の真っ只中であった。先生の奥さんはアンチ巨人で、阪神タイガースのファンではなかったと思うが、夏のバース、掛布、岡田のバックスクリーン3連発を声を弾ませて振り返っていた。万吉は南海ホークスとともに育ったので阪神ファンではないが、関西人としてこの年の阪神は誇りにおもった。しかし「とにかく着工できる。」この日の万吉は何よりもそれが嬉しかった。
 地鎮祭が通常と同様に執り行われることになった。神棚に向かって右が建築主席で、左は中央通路側から設計者、次に施工者の順に席が決められる。築間先生は上機嫌で建築主の席に着いた。設計者の代表者席に年長の稲田さんが座られ、万吉は担当者席に座った。
 万吉にとって、経済的で機能的なプロポーションデザイン、最小寸法の習得、近隣交渉等々、この建築は学ぶべき事が多かった。なにより施主対策が勉強になった。

(本作品はフィクションであり、登場する人物・団体名等はすべて架空のものです。但し、作中で言及している物語の背景の建築や建築家等の人物や団体名は、現実に存在していたり、または過去に存在していたものも含まれています。また、原作は2004年4月刊行の「退職届」です。)

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